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置物、祠、グッズ、スイーツ…。

町のあちらこちらに潜んでいる、

たぬきさんたちの発見レポート。

あなたの町のたぬきさんも

どうぞ見つけて教えてください。

 

千日前の

巨大おたぬきさま

「大阪市内の中でも、おそらくは1、2を争う巨大なおたぬきさまやないやろか?」と思っているのが、こちらの千日前にある「炉ばた焼 たぬき茶屋」の巨大おたぬきさま。ごらんのとおりの大きさで、見ると、屋根ぎりぎり。2メートルは優にこえます。

店は何代か変わっているそうなんですが、伝え聞くところによれば、昭和26年にこの巨大おたぬきさまをこしらえたそうで、そのサイズに合わせて店もみつくろったとか。昭和26年いうたら1951年。ようやく政府による米の配給制度が終わったという頃で、力道山がプロレス・デビューしたというような時代です。大阪ミナミ、千日前も辺り一面、空襲でやられましたから、そうした戦災の傷跡もまだまだ生々しい状況やったと思いますが、そんなまちかどにいきなり、この巨大おたぬきさま。道行くひとはさぞかし驚いたことやと思います。しかし、これから新しい日本を作る!平和で豊かな時代に邁進していくんや!という希望の象徴のようなもんが、この巨大おたぬきさまにはあったんかもしれません。ご存知のように、おたぬきさまは「お他抜きさま」でもあって、「他の人、他の店を抜いて大きくなる」という縁起物ですし・・・。

 

千日前は、江戸時代は刑場・火葬場・寺院などが集積していた千日墓地でした。明治初期の資料には年間8000人の遺体を火葬したという記録があるそうで、ざっと江戸時代250年間で毎年8000体の遺体を荼毘に伏していたと計算すると、なんと200万人の遺体が眠っていたまちです。その墓地が明治政府のものになり、さらに民間に払い下げとなったのが明治のはじめ。しかしこんな縁起でもない場所は、気味悪がって誰も欲しがりません。ところが、あるひとりの男が千日前を手に入れると言い出した。彼こそが天才興行師の奥田弁次郎。こんな土地を買ってどうするのか?なんと見世物小屋、化物屋敷を始めた。場所が場所なだけに超絶人気となり、一躍、千日前が見世物小屋、化物屋敷、カラクリ芝居といった興業のまちになります。これが千日前都市開発のきっかけ。他の人にはない発想とアイデアでまちを大いに盛り上げた。他の人を抜いた男。まさに奥田弁次郎こそは、大阪きっての「お他抜きさま」でしょう。

 

千日墓地の名残である「三津寺墓地」がいまも千日前にあります。それがなんと「炉ばた焼 たぬき茶屋」の通りを挟んで目の前。三津寺墓地には道頓堀を開発した安井道頓の墓なんかもあります。巨大おたぬきさまと一緒に、ぜひともお参りしてあげてください。

 

陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー)

千日前の

巨大おたぬきさまへは
こちら。

大阪市営地下鉄

「日本橋駅」から

徒歩約5分ほどです。

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